部屋に引きこもったまま数時間。キルシュはベッドに移って突っ伏していた。
使用人が夕食を運んでくれたが、返事をする事はおろか起き上がる気にもなれず、食事が乗せられたワゴンは廊下に置かれたままだった。(言ってしまったからにはもう巻き戻せない……)
キルシュは寝返りを打ち、仰向けになる。
そうして薄く目を開けて、ぼんやりと天蓋の裏を眺めた。 時刻は既に十二時を回っただろう。使用人の足音や会話さえ聞こえず、屋敷中シン……とした静謐に包まれている。明かりもつけずに何時間も真っ暗闇の中にいたので、暗順応で部屋の輪郭ははっきりと見えた。何も考えないでいた方が良い。気が滅入って、心が壊れてしまいそうだ。だから、こうしてぼんやりして寝落ちしようしているのに、頭も心も散らかり、どうにも義兄の顔が不機嫌な顔が浮かぶ。
そして続け様に、学院長、性格が悪いクラスメイトたちの顔まで……。 耳の中にこびりついた自分を蔑む言葉の数々に、キルシュは手で目を覆って唇を拉げた。(こんな力いらないよ……欲しくなかった)
再び嗚咽を溢すと、キルシュの手のひらから蔓が伸び、白い小花が次々に綻び、散った。
好きで、能有りで生まれたわけではない。できる事なら、そんなものは持たないで生まれたかった。
かといって、自分を不幸とは思わないし、恵まれすぎている待遇だとは思っている。……この屋敷に来た時、義父から部屋を与えられた。
『今日からここがキルシュのお家だ』 そう言って、ドレスや装飾品を沢山与えられて、街に出掛けた時には可愛らしいお人形も買ってもらった。欲しいものは何でも与えてもらえて、美味しいものや甘いものも食べさせてもらって、記憶喪失とはいえ幸せな幼少期を過ごさせてもらった。 それに家庭教師を付けてもらえたし、十四歳でパトリオーヌ女学院に入学し、充分すぎる程の教育も受けさせてもらった。 どう考えても、ごく一般的な十七歳よりも恵まれている。否、怖い程に恵まれているのだ。だが、改めてまじまじと考えると、自分の存在意義とは何だろうかと思う。
貴族の娘に課された最大の勤めは、結婚だ。しかし、自分は養子で……。
それももとは、身元不明の孤児……。忌まれた能有りで、成績は最底辺。政略結婚の使い道なんてあるのだろうか? と、今更のように疑問に思った。 それでも屋敷のため、いつかは結婚するのだろうか。相手は貴族ではなく、地方豪族や商人だって考えられる。 恋にはずっと憧れているが、まじまじと考えるほどに出来損ないの自分が花嫁になるのは、何だか想像できなかった。 それに使用人たちもよく自分の噂をしているのは、キルシュも知っている。 皆「お嬢様」として優しく丁寧に接してくれるが、その裏では「問題を起こしてばかり」「忌々しい能有り」「どうしてあんな子を養子に引き取ったのか……」なんて言葉は何度も耳に入っていた。 そして義父が病死して、イグナーツが当主になった時には「お父様が善意で引き取ったあんな子を残されて、イグナーツ様が可哀想」と……。 つまり屋敷にとって、お荷物なのだと。来年の秋にはキルシュは学院を卒業する。 その後の事なんて、規則正しい学院生活を送る日々の中ではまともに考えられなかったが、今更のように不安に思えてきた。
その頃には十八歳を超えて、成人だ。この屋敷に戻るのか。縁談があるのか不明だ。
そんな時、脳裏に新しい想像が過った。(成人したら私、ここを追い出されるかもしれない)
伯爵家に来てからの養育費・生活費・雑費全て返せと義兄に請求される事もありうるだろう。横たわったキルシュは身を硬直させる。
はたして、そうなってしまったら、どうやって返せばいいのだろう。
帝都外れの方にあると言われている、色街の路上に立つだとか、娼館の扉を叩き、「雇って下さい」なんて言う事になるかもしれない。 そして、裸同然の破廉恥な恰好でショーケースに入れられて、路上を歩く男を誘惑して客引きする……。 どんどん広がる想像……否、妄想に、キルシュは目を白黒とさせて頭を抱えた。なにせ、若い女が大金を稼ぐにはやはり売春しか無いのだ。それに能有りの女はまともな仕事につけない者も多いそうで、貧困者が多く、売春婦になる者も多いと聞く。それも一般民とは比べにならないほどに自分に付けられる値段は格安だそう。
これらは全部、古本市で購入した〝ちょっと過激な恋愛小説〟の中にあった知識で決して明確では無いが……。(……本当に私は何のために生きているの? 存在意義って何?)
これからどうしよう。そんな不安を吐き出すように、ため息を一つつき、キルシュが瞳を伏せた──その時だった。
『ケケケ……あんたさぁ~自分の事、本当はすごく不幸だって思ってるだろ? まぁ、びっくりする程に幸が薄いな~って思うけどさぁ』途端にどこからか聞こえたのは少年の声とも少女の声とも言えない子どもの声だった。
何事か。キルシュは驚き、慌てて跳ね起きる。その時だった。目の前にはさらさらとした砂粒のよう、金色の光の粒子が空気中に漂った。まるで砂が動くよう、流れるように一つに纏まると、眩い光を放ち、真っ白な鳩が羽ばたき現れた。
──怪奇的非現実を目の当たりにしてしまった。 畏怖に顔を引き攣らせたキルシュはシーツを掴んで、身を強ばらせる。『いいかぁ、騒ぐなよ? 怯えるなよ~? ぼくは普通の人間には見えないから、あんたが騒いだら、とうとう気が触れた変人だって思われるからな?』
そう言って鳩は羽繕いをしながらキルシュに説明した。
いや、それでも喋るなんて怖すぎる。キルシュは畏怖に震えたまま鳩を見つめた。 別に鳩の見た目、自体は怖くない。 暗闇の中で淡く光るのでこの世の者とは思えないが、雪のように白い羽毛に赤い瞳が印象的な鳩だった。 そんな鳩は、羽繕いを終えると、キルシュにちょこちょこと歩み寄ってくる。「ひっ……」
『おい馬鹿。だから怖がるなって。キルシュが嫌いなのは虫。鳥が嫌いじゃないのは知ってるんだよ。ぼくは無害なんだから』失礼な奴だなぁ。なんて、ムスッとして言われた。
神々しく可愛い見てくれの癖に「おい馬鹿」なんて。口が悪い事に驚いた。ましてや、可愛らしい子どもの声だから。 しかしそれ以上に驚かされたのは……自分の名を知っている事で。「なんで……名前」
『知ってるさ、そんくらい。なぁ徒花?』その不名誉なあだ名まで知っているなんて……。
自然と握りしめた手には植物の蔦が芽吹くが『茨は出すなよ』と鳩に呆れて笑われた。そうだ、とりあえず落ち着こう。 深く息を吐いて吸っての深呼吸。そうする事で、気持ちが落ち着き、蔓草の具象は解かれ金の粒子になって空間にキラキラと漂い消え失せた。「……あなた、何者?」
自分を宥めるように、落ち着いて聞くと鳩は「ケケケ」と笑い「神様の遣い」なんて悪戯気に言う。 ありえなくはない話だろう。しかし、この笑い方や口の悪さは悪魔の遣いのようにも思えてしまう。 『徒花。おまえさぁ馬鹿じゃねーの? 本当は辛くて苦しいなら、さっさとこんな家とっとと出て行けばいいじゃん。だいたいおまえってさ、何かと理由をつけて甘えてなーい?』──足りない思考で同じ事ばかり考えて、過去にほんの少し与えられた幸せや優しい思い出に縋ってさ。どうしょうもないクソアマとしか言えねぇんだけど。
なんて、嫌味ったらしく鳩は付け添えた。的確だった。確かに、この屋敷に来たばかりの頃、義父に与えられた幸せやイグナーツが優しかった過去には縋り付いている。しかし、こんな言い方は無いだろう。それにこうも心の中を知られているのも気味が悪い。
その瞬間確定した。こんな神々しいが、これはどうやら悪魔の遣いな気がする。本能がそう言っているのだ。
キルシュは、枕元に置かれたクッションを必死に投げて鳩を追い払おうとするが……羽ばたいて逃げられてしまう。『やーめーてーよー! 暴力反対! すぐ怒る女の子こわーい! キレ症!』
「あんたがそうやって暴言吐くからでしょ! 私の事を色々と知ってるみたいだけど、なんなの、怖いのよ! 消えなさいこの悪魔!」思わず大声で叫んでしまって、キルシュは慌てて口を塞ぐ。
そうだ。今は深夜。それに悪魔消えろなんて叫んでいたら、本当にこの鳩の言う通り、気が触れておかしくなったと思われるだろう。『そう。騒がない方がいい。徒花のためにもね』
だからその呼び方はやめて欲しいが……。キルシュは眉間を揉んでため息をつく。 ……この世界は、今も尚、神や精霊を信仰しているし信じている。 しかし現代は、馬車だけではなく、都市部は車も走り始めている。蒸気機関車も走っていて……製錬や工業が発展している。 きっと聖職者だって喋る鳩が出てきたらきっと腰を抜かしてしまうだろう。 キルシュは半眼になって、自分の膝に留まった鳩を見た。たった数分だが、この非現実にもう随分と慣れてきていた。 自称神様の遣い。喋るだけで、確かに別段害はなさそうで……。『やっと落ち着いた? たださぁ、自分がどうしたいのか意思くらい持てよーって言いたいの』
──なぁ徒花のキルシュ。おまえは何のために生きるんだ? おまえは、自分の存在意義をどうしたいの?
そう付け添えて。鳩は真っ赤な瞳でキルシュを射貫く。
はたして、何のために生きるのか? 自問自答を含めて今日で何度目だろう。キルシュはやはり答えを出せなかった。
頭上に広がる紺碧の夜空に沢山の星々の瞬きが鮮明だった。今日は月が無い、新月だったようだ。 初秋の夜風は少しだけ冷たさを含んでいるが、まだ震える程の寒さでは無い。 キルシュは着の身着のまま、女学院の夏制服を纏ったキルシュは一人……否、一羽の鳩を連れて伯爵家へと続く穏やかな坂道を下りながら、ぼんやりと空を眺めて歩んでいた。 その表情は、どこかせいせいとしており、先程までの暗さが無かった。 「勢いだけで、本当に屋敷から出てきちゃった……」 キルシュは歩みつつも後ろを振り返る。後方には明かりが消えた屋敷の輪郭だけが闇にぼんやりと浮かんでいた。 ──何のために生きるんだ? おまえは、自分の存在意義をどうしたいの? 突如として現れた〝喋る鳩〟に訊かれた事に、キルシュは今も尚、答えも出せずにいた。 だが、考えるよりも身体が動くのは早かった。『分かった。出て行く。後で考える』と、鳩にそう言って、最低限の荷物を肩掛けの鞄に詰めた。そうして…… 探さないでください、兄様さようなら。 出来損ないの妹より そう、書き殴って家出した。 しかし、玄関から出れば間違いなく、使用人にバレてしまう。そこで、すぐに浮かんだ脱出方法は窓からだった。 自室の窓を空けて、能有りの力を使った。植物の蔦を生やし、近くの木に結びつけて飛び移り……そうして、あとは蔦を伝って木を降りた。 そうして思いの他、簡単に脱出に成功してしまったのだ。 ほんの少しだけ運動神経が良かった事も幸いしただろう。しかし。まさかこんな事に自分の力が役立つとは思わず、キルシュ自身も驚いてしまった。 「私の力って、夜逃げや家出に向いてたのね……なんか結構便利かも」 普段遣うなと制限しているものだ。それなのに、こうも簡単に思い通りに扱えてしまうとは。そして、家出を成功させてしまうとは。 ちょっとし
無計画に歩む事、幾許か。 真っ暗闇に静まり帰った真夜中の街を横切り、林檎畑の続く農園地帯を横切り、領地の南端の方までやってきた。 そもそも伯爵家のある場所が領地の南寄り。実際には大した距離ではない。 ……無計画とはいえ、家出は成功させたい。 やはり兄の言った言葉は到底許せぬもので、キルシュ自身むきになっていた。だからこそ、せめてこれくらいは成し遂げたいなんて思えてしまった。 とはいえ、二度と帰らないという程の心構えではなかった。 いつか帰って来て、立派になって見返してやりたい。と、ふんわりとその程度に思うだけ。 それでも屋敷を出るのに成功したのだ。何だか、今なら何でもできる気がして仕方ない。 (あのお兄様に〝ぎゃふん〟と言わせてあげたい。そうできたら最高) この家出を本当の意味で成功させるには、絶対に見つからないように、探し出せぬように。これが必須だ。そこで考えたのは、国外逃亡だった。 今、キルシュの目の前には鬱蒼と茂る森が広がっていた。この森はシュメルツ・ヴァアルト……ツァール帝国と隣接するオルニエール王国の境となる森だった。 ……そう。レルヒェ地方でもヴィーゼ領は国境沿いの街だった。 だが、この深い森──シュメルツ・ヴァルトが理由してここには関所が無い。オルニエール王国との行き来するには、二つ以上離れた領地の川の関所を通らねばならない。 まさに抜け道と言えば抜け道だが……誰もこんな場所を通って他国に逃亡しようなんて考えもしないだろうと思えた。 だが、この選択は不思議と〝意図して〟というより自然と浮かんだものだった。 むしろ、勝手にこの方向に足が進み、直感的に悟っただけで……。(オリニエール語は一応話せるけど……ツァール語が普通に通じる地域が多いって聞いたわ。あちらで何かしら、仕事を見つけてどうにか生計を立てていけば暮らしていけるはず) きっと大丈夫だ。と、根拠も無い自信を心を弾ませて、キルシュは暗闇に広がる森を見る。 しかし、足は震えて一歩がなかなか踏み出せなかった。 この
新月の夜という事もあって、森の中はひたすらに暗かった。 しかし、カンテラなどの明かりをもっていたら、〝見えてはいけないもの〟が見えそうで、逆にこの真っ暗な方がかえって怖くない気がした。 森に入って一時間近く。キルシュは獣道を歩んで森の奥へと進んでいた。 時折、木の枝に引っかかったりもするが、問題なく歩けている。 こうも暗くとも暗順応が働き、目が慣れるものだった。それに針葉樹の隙間から見える星空を見る限り、星たちは西の方向へ動いている。 あと数時間で空が白み、夜明けを迎えるだろう。 それを理解すると、なぜだがホッとしてしまい、キルシュはその場にしゃがみ込んだ。「さすがに疲れたわ……」 家を出てから、ほぼ立ちっぱなしの歩きっぱなしでだった。 もう足が棒のようだ。膝も笑って力が入らなくなってきた。大都会で寮暮らしをするお嬢様にしては根性を出しただろう。ほんの少し自画自賛して、キルシュはその場に腰掛けた。 だが、そこで座ってしまった事が間違いだっただろう。 疲労から来る眠気は容赦無く襲いかかり、瞼が重たくなってきたのだ。 そもそも普段の生活では、日付が変わる前には確実に寝ているのだ。今の詳しい時間は分からないが、恐らく午前二時を過ぎたのではないだろうか。キルシュは瞼を擦って欠伸をひとつ。(せめて陽が昇るまでは起きていよう……) だが、もう一度立つ気力が湧かない。それに瞼は段々と持ち上がらなくなってしまった。国内屈指の心霊スポットだ。こんな場所で眠れるなんて自分の神経が意外にも図太いなんて自分でも心のどこかで感心してしまうが、体力的にもう限界だった。 (少しだけ、ほんの少しだけ……休もう) すぐに起きるんだと自分に言い聞かせて。キルシュは、背を木の幹に背を預け眠りに落ちた。 それからどれ程の時間が経過しただろうか。 心地良い眠りを彷徨っていたキルシュは、どこか聞き覚えのある子どもの声に突如として叩き起こされた。『おい、キルシュ起きろ!
やがて視界いっぱいを覆い尽くした閃光が消え、露わとなった正体にキルシュは目を瞠った。 ──それは、齢二十に届くか届かないかという風貌の青年だった。 柔らかに逆毛の立つ短い髪。その髪色は暗闇の中でも淡い色をしている事が分かる。装いは暗色を基調としたジレにシャツ、下衣に革製のブーツを合わせていて、洗練された雰囲気のあるものを召している。 上背もあり、ぱっと見た雰囲気は、鋭い目付きが印象的。とても、精悍な顔立ちの青年だった。 しかし、射貫かれた瞳は人間のものではない。 その瞳は暗闇の中、煌々とした光を放っているのだ。それはまるで、真昼の陽光を絞り集めたかのよな眩い金色で……。そんな瞳の奥底に真鍮色のギアのようなものがゆっくりと回っているのが見える。 更によく見れば、彼の首や手首の関節部位には不自然な継ぎ目があって……。 ふと連想するのは、機械科学の産物── 「機械人形(オートマトン)……?」 キルシュは呟くと、彼は何も答えずに視線を反らした。「走るぞ」 ぶっきらぼうに彼は言う。そして、彼はキルシュの手首を掴む獣道を駆け出した。 その一拍後、禍々しい咆哮を上げて異形の生き物は二人を追い始める。「**あああああ! 許さない、許さない、憎い……憎い!**」 のろのろとまどろっこしい、呪詛のような言葉が後方から響き渡った。 しかし彼の足は速すぎた。とてもでは追いつけず、さっそく足がもつれて転びそうになった瞬間だった。「仕方ないな」 痛い程に手首を引っ張られて、腰を掴まれた。そうして抱え上げられるなり、彼の肩に担がれる。 「──!」 とっさの事に驚いてしまった。 落ちないようにと片腕でがっちりと腰に腕を回……思いきり、おしりを触られているが、もはやそれどころではない。 背後からこの世の生き物とは思えない恐ろしい奇声が聞こえてくる。 ふとキルシュが身体を少し起こして後ろを見ると、やはりあの恐ろしい生き物が涎を垂らして追ってきていた。「ね
……と、言っても近すぎるだろう。 キルシュは彼からぷいと顔を逸らす。「な、何?」 いくら顔が格好良くて、人のように感情を持ち自立し思考するように思えても、人ではない。何を考えいるのか分からなかった。キルシュは、彼を一瞥した途端だった。すぐに頤を摘ままれて、無理矢理彼の方を向かされる。「……!」 頭から湯気でも上がってしまいそうだった。キルシュは真っ赤になって彼から目を逸らす。 堪らぬ羞恥は、具象の花を手のひらから次々に芽吹かせる。薄紅の蕾が膨らみぱっと小さな小花を次々に咲く様はまさに感情現れ。いたたまれない羞恥にキルシュは追い込まれる。「俺は一つ、おまえに頼み事をしなきゃいけない」 ややあって言った彼の声は少し震えていた。 おっかなびっくりとキルシュが彼を見ると、光る目のせいでうっすら分かる彼の顔が紅潮しているのが分かった。「頼み事?」 訝しげにキルシュは見る。彼は頷いた。「俺に少しヘルツを……おまえの〝心〟をくれないか?」「心?」 キルシュは眉をひそめて復唱した。 ──ヘルツとは、宗教学的に〝心そのもの〟を示す言葉だ。『心が欲しい』それがいったい、何を示すのだろうか……キルシュは困惑し何度も目をしばたたく。「〝心〟は力を発動させる為の原動力だ。さっきおまえを助けた時に、殆ど使い果たした。あと数時間しないと、俺の〝心〟は回復しない。このままだと俺たちは安全な場所に逃げ切れないと思う」 ──おまえを守らなきゃいけない、だから頼みたいんだ。と付け添えて。彼は、キルシュを上に向かせた。 確かこんなシーンは、夜に部屋で一人密やかに楽しむ娯楽、恋愛小説で見た事がある。 男性に頤を摘まみ上げられて、上を向かされて……そう。作中のヒロインたちと、全く同じ状態に置かれている。ああ、きっと、そうに違いない。 これから、されるであろう事
──霞のかかった白の視界は次第に色が付き始めた。黄昏を連想させる金と茜が交じり合う……そんな光が空間いっぱいに満ちていた。 記憶に無いが、そこはどこか見覚えのある景色で……。唖然としたキルシュは辺りをぐるりと見渡した。 なだらかな曲線を描いて広がる木目調の高い天井に、高い場所にある窓には蔓草を象ったアイアンの窓飾り。どこかの礼拝堂だろうか。『なぁキルシュ!』 途端に呼ばれた少年の声にキルシュが、振り向くと壇上のステンドグラスの前に少年と少女が立っていた。年齢は十歳に満たない程で……。 その光景を見た瞬間にキルシュの側頭部はズキリと痛んだ。 そこに立っている少女は、紛れもなく幼い頃の自分自身。茜色の髪に、若苗色の瞳。そんな小さな自分の正面で手を差し出している少年は、真夏の陽光を束ねたかのような金髪だった。 しかし不思議と彼の顔ははっきりと見えなかった。 それでも大きな特徴が見えた、左手の甲にある火輪──まさに太陽を象ったかのような能有りの紋様がある。それをはっきりと見た瞬間にキルシュの胸は痛い程に爆ぜた。喉の奥が嫌に乾いて苦しい。(何なの、これは……私は確か真夜中の森に居たはずで) どくどくと自分の脈が煩くなって、呼吸が苦しい。 身体が心が〝これ以上は見るな〟と拒絶している感覚もあるが、壇上の二人から目が逸らせない。 幼きキルシュは差し出された彼の手を取り、やんわりと微笑んでいた。 ……自然に普通に笑えている。今ではできない事に、キルシュは唖然としてしまった。『おれね、キルシュが大好きなんだ。大人になっても最高の親友でいよう。それでな、いつか……いつかは……』 顔の見えない少年は言葉を詰まらせる。そんな様子に幼いキルシュは首を傾げて彼を見上げていた。『なぁに?』『──っ! いつか、おれの事を好きになってくれたら、お嫁さんになってほし
本当にどうしてなのだろう。なぜ、こんなにも悲しいのか、切ないのか分からない。 嗚咽を溢して泣くキルシュに彼はしゃがんで手を伸ばす。そうして、優しく髪を撫で頬を撫でて……濁流のように溢れ落ちる涙を掬った。 「泣き虫は相変わらずなんだな。ほら行くぞ」 ──立てるか? と、優しく言って。彼はキルシュに左手を差し出した。 そこにある太陽を象る火輪の紋様はいびつに引き裂かれていて……それを見た瞬間にキルシュの瞳は余計に潤った。 ああ、間違いない。先程の幻視の中で見たものと違いない。彼はきっと〝元〟能有りだ。そして恐らく、人間だったに違いない。そう考えるのが自然だった。 「……ケルン」 キルシュが小さく呟くと、彼はどこか切なげに笑んでキルシュの手をやんわりと握る。 「俺の名前、思い出してくれたんだ」 そうだ、ケルンだ。と彼は言って、彼はキルシュを抱き寄せた。 男の人に抱き締められたのは、記憶上初めてだった。 無骨で胸板が固くて少し厚い。機械人形にしてはあまりによく、出来過ぎている。皮膚も人間の質感と何ら変わらなくて、首筋から感じる匂いが何だか、温かなお日様のようで。何だか不思議と懐かしい心地がする。「……ねぇ、どうして。私は貴方の事を何も知らないのに、どうして」 分からない事が怖い。けれど、知る事が怖くて堪らなかった。 忘れた記憶が今にも蘇りそうだ。キルシュがこめかみに手を当てた途端だった。 目を瞑って真っ暗な視界の中、ボーンボーン……と柱時計のような音が鳴り、胸の奥がたちまち凍てつくように冷たくなる。 ────怖い。嫌だ、忘れたくない。忘れたくないよ。 しゃくり上げるように嗚咽を溢し、懇願する幼い自分が浮かび上がる。目隠しをされているのだろう。視界は塞がれていて、何も見えない。 身動き一つ取れなくて、ただならぬ恐怖で身体が強ばった。 ひっ。と、キルシュが、目を瞠った瞬間に、彼は途端にキルシュを今一度抱き寄せた。 まるで、〝そちら側に行くな〟という
パタンと、静かに扉が閉まる音がした。 暖かで柔らかな、陽の光に促されてキルシュはゆっくりと瞼を持ち上げる。(私は……ここは) すぐに頭に過ったのは昨晩の二つの出会いだった。 喋る鳩に、自立し思考する機械人形。それも元人間、能有りと思しくて……。 どちらも、現実的ではないものだった。まるで夢でも見ていたかのように思う。だが、見知らぬ絵画の天井と身体を包む暖かで柔らかな掛け布団の感触に、ここが学院寮でも伯爵家の屋敷でもないとキルシュは改めて理解した。(……どこだろう) 疑問は湧き立つが、それ以上に空腹の方が気になってしまう。 どこからか、ベリーを煮詰めたような甘酸っぱい香りが漂ってくる。それがジャムだったら、パンにたっぷりつけて頬張りたい。そんな事を考えつつも、キルシュは寝返りを打つ。 それもそのはずだろう。最後の食事は前日の朝。帝都の寮で朝食をとったきりで何も口にしていなかったのだ。 せめて、部屋に運ばれた夕飯くらい食べればよかった……と、後悔して、キルシュはぺったんこになった自分の腹を摩ったと同時だった。 『ケケケ……。起きたか徒花の眠り姫』 軽い調子の声と共に、目の前にポッと光の渦がポッと灯った。そこから羽ばたいて姿を現したのは昨晩出会った、喋る鳩、ファオルだった。 (ああ、やっぱり夢じゃなかった) もしかしたら自分は頭がおかしくなって、変な幻覚でも見続けていたのかとさえ思っていた。そうではなかった、よかった。と、改めて思い、キルシュは自然と唇を緩めて、安堵した顔になる。 そんな顔に見かねたのだろうか。ファオルはツンとキルシュの額を嘴で突いた。「いだっ」 『何を惚けた顔してんだよ~おまえ本当にお気楽だなぁ』 愛らしい子どもの声だが、やはり憎たらしい。 突かれた額を擦りながら、キルシュは恨めしくファオルを睨む。 「った……何するのよ、痛いじゃないの」 『だってさぁ。なーんかキルシュを見てると、腹
昼食後、建物内の案内をするとシュネに言われて、キルシュはその後を付いて歩いていた。 誰もが近寄らぬ森の中に、建造物がある事自体にも驚いてしまうが、それ以上にこの建物の古典的で絢爛とした美しさに驚いてしまった。 ──月白の塗料に彩られた優美な曲線を描く螺旋階段は、歩めば軋んだ音が上がった。手すりの下の格子は唐草を思わせる飾り。そして、廊下に敷き詰められた臙脂色のカーペットも、通路の壁に設置された黄金の燭台も黒く煤けていて、かなり年季が入っている事を窺える。 ……見るからに、数世紀昔の屋敷のようだった。 華美なドレスのように、幾重ものレースがあしらわれた天蓋の付いた大きなベッドに、華やかな調度品の数々……。 それはどの部屋にも設置されていて、部屋の奥には蜉蝣の羽根のように透き通ったベールの付いた猫足のバスタブが置かれていた。 どの部屋も楕円型の間取りで窓までも丸みを帯びている。そして、目立つものといえば『これでもか』と言う程に施されたゴテゴテとした漆喰装飾だ。至るところに散りばめられた煌びやかさにキルシュは目眩を覚えた。 そうして、最後にシュネに案内された部屋にキルシュは圧倒された。 そこは、こぢんまりとした礼拝堂だった。 黄金と白を基調とした祭壇には天使や聖者の彫刻の数々が左右対称に配置されている。飾り柱にも細やかな装飾や聖人のレリーフの数々がひしめいていた。美しい彫刻の数々に促されて、そのまま宙を見上げて更に気圧された。 太陽が照りつける雲の上で数多の天使が歌う。 その反対側で茜髪の聖女が闇の中、輝かしい黄金の光を抱き茨の弓を引く──荘厳な天井画が色鮮やかに描かれていたのだ。 キルシュ自身、美術に深い関心がある訳でもない。それでも、この天井画は見惚れる程に美しいかった。しかしどういった訳だろう。この絵を見れば見る程どこか不安を掻き立てられる。キルシュはすぐに天井画を見るのをやめた。「綺麗でしょう? でもね、何だか不穏な気配がしちゃって私もキルシュちゃん同じ反応しちゃ
……そうだ、キスしたのだ。 それも初めてのキスで舌を絡められて、随分と官能的なキスをされたのだ。 しかし不思議と不快ではなくて、少し……いいや、びっくりするほど気持ち良かった。自分でも本気で意味が分からない。 途端にキルシュは真っ赤になって唇を押さえる。 それにあの記憶の中の少年が彼と同一人物の〝ケルン〟というなら……。『いつか、おれの事を好きになってくれたら、お嫁さんになってほしい!』そんな言葉を言われた気がする。つまり、最初から自分に好意を持っていたという事になる。 そもそもだ。初めて出会った瞬間に彼は『見つけた』と言った。 ファオルの件もあって、ずっとこの日を待っていたように窺えてしまう。 しかし幻視を見るだの、非現実的な事が起きている。あれは本当に、同一人物なのか。何らかの変な力を使って、都合の良い夢でも見せられたのだろうか……。 キルシュは真っ赤になったまま黙考に耽る。だが、そんな様子に心配したのだろう。「キルシュちゃん、どうしたの?」 顔が真っ赤よ。と、シュネに心配そうに言われて、キルシュは我に返った。 同性とは言え初対面だ。『そのケルンに唇を奪われた』だのさすがに言えたものではない。 キルシュは慌てて首を横に振るう。 「大丈夫です、すみません。色々思い出してぼーっとしてしまって」「いいのよ。でも、びっくりしたでしょう……あまりにもよくできた機械人形だって」「……はい」「私も初対面は驚いたわ。確か、あれは五年程昔かしら……」 ──きっと、私たちは似たような立場だから話してもきっと問題なさそうね。なんて付け添えて、シュネは、薔薇色の唇を開いた。「私、北西部にあるシュトルヒ子爵領の牧師の娘なの。母は優しかったわ。けれど、父は能有りの私を疎く思って。二人は私の所為で喧嘩ばか
パタンと、静かに扉が閉まる音がした。 暖かで柔らかな、陽の光に促されてキルシュはゆっくりと瞼を持ち上げる。(私は……ここは) すぐに頭に過ったのは昨晩の二つの出会いだった。 喋る鳩に、自立し思考する機械人形。それも元人間、能有りと思しくて……。 どちらも、現実的ではないものだった。まるで夢でも見ていたかのように思う。だが、見知らぬ絵画の天井と身体を包む暖かで柔らかな掛け布団の感触に、ここが学院寮でも伯爵家の屋敷でもないとキルシュは改めて理解した。(……どこだろう) 疑問は湧き立つが、それ以上に空腹の方が気になってしまう。 どこからか、ベリーを煮詰めたような甘酸っぱい香りが漂ってくる。それがジャムだったら、パンにたっぷりつけて頬張りたい。そんな事を考えつつも、キルシュは寝返りを打つ。 それもそのはずだろう。最後の食事は前日の朝。帝都の寮で朝食をとったきりで何も口にしていなかったのだ。 せめて、部屋に運ばれた夕飯くらい食べればよかった……と、後悔して、キルシュはぺったんこになった自分の腹を摩ったと同時だった。 『ケケケ……。起きたか徒花の眠り姫』 軽い調子の声と共に、目の前にポッと光の渦がポッと灯った。そこから羽ばたいて姿を現したのは昨晩出会った、喋る鳩、ファオルだった。 (ああ、やっぱり夢じゃなかった) もしかしたら自分は頭がおかしくなって、変な幻覚でも見続けていたのかとさえ思っていた。そうではなかった、よかった。と、改めて思い、キルシュは自然と唇を緩めて、安堵した顔になる。 そんな顔に見かねたのだろうか。ファオルはツンとキルシュの額を嘴で突いた。「いだっ」 『何を惚けた顔してんだよ~おまえ本当にお気楽だなぁ』 愛らしい子どもの声だが、やはり憎たらしい。 突かれた額を擦りながら、キルシュは恨めしくファオルを睨む。 「った……何するのよ、痛いじゃないの」 『だってさぁ。なーんかキルシュを見てると、腹
本当にどうしてなのだろう。なぜ、こんなにも悲しいのか、切ないのか分からない。 嗚咽を溢して泣くキルシュに彼はしゃがんで手を伸ばす。そうして、優しく髪を撫で頬を撫でて……濁流のように溢れ落ちる涙を掬った。 「泣き虫は相変わらずなんだな。ほら行くぞ」 ──立てるか? と、優しく言って。彼はキルシュに左手を差し出した。 そこにある太陽を象る火輪の紋様はいびつに引き裂かれていて……それを見た瞬間にキルシュの瞳は余計に潤った。 ああ、間違いない。先程の幻視の中で見たものと違いない。彼はきっと〝元〟能有りだ。そして恐らく、人間だったに違いない。そう考えるのが自然だった。 「……ケルン」 キルシュが小さく呟くと、彼はどこか切なげに笑んでキルシュの手をやんわりと握る。 「俺の名前、思い出してくれたんだ」 そうだ、ケルンだ。と彼は言って、彼はキルシュを抱き寄せた。 男の人に抱き締められたのは、記憶上初めてだった。 無骨で胸板が固くて少し厚い。機械人形にしてはあまりによく、出来過ぎている。皮膚も人間の質感と何ら変わらなくて、首筋から感じる匂いが何だか、温かなお日様のようで。何だか不思議と懐かしい心地がする。「……ねぇ、どうして。私は貴方の事を何も知らないのに、どうして」 分からない事が怖い。けれど、知る事が怖くて堪らなかった。 忘れた記憶が今にも蘇りそうだ。キルシュがこめかみに手を当てた途端だった。 目を瞑って真っ暗な視界の中、ボーンボーン……と柱時計のような音が鳴り、胸の奥がたちまち凍てつくように冷たくなる。 ────怖い。嫌だ、忘れたくない。忘れたくないよ。 しゃくり上げるように嗚咽を溢し、懇願する幼い自分が浮かび上がる。目隠しをされているのだろう。視界は塞がれていて、何も見えない。 身動き一つ取れなくて、ただならぬ恐怖で身体が強ばった。 ひっ。と、キルシュが、目を瞠った瞬間に、彼は途端にキルシュを今一度抱き寄せた。 まるで、〝そちら側に行くな〟という
──霞のかかった白の視界は次第に色が付き始めた。黄昏を連想させる金と茜が交じり合う……そんな光が空間いっぱいに満ちていた。 記憶に無いが、そこはどこか見覚えのある景色で……。唖然としたキルシュは辺りをぐるりと見渡した。 なだらかな曲線を描いて広がる木目調の高い天井に、高い場所にある窓には蔓草を象ったアイアンの窓飾り。どこかの礼拝堂だろうか。『なぁキルシュ!』 途端に呼ばれた少年の声にキルシュが、振り向くと壇上のステンドグラスの前に少年と少女が立っていた。年齢は十歳に満たない程で……。 その光景を見た瞬間にキルシュの側頭部はズキリと痛んだ。 そこに立っている少女は、紛れもなく幼い頃の自分自身。茜色の髪に、若苗色の瞳。そんな小さな自分の正面で手を差し出している少年は、真夏の陽光を束ねたかのような金髪だった。 しかし不思議と彼の顔ははっきりと見えなかった。 それでも大きな特徴が見えた、左手の甲にある火輪──まさに太陽を象ったかのような能有りの紋様がある。それをはっきりと見た瞬間にキルシュの胸は痛い程に爆ぜた。喉の奥が嫌に乾いて苦しい。(何なの、これは……私は確か真夜中の森に居たはずで) どくどくと自分の脈が煩くなって、呼吸が苦しい。 身体が心が〝これ以上は見るな〟と拒絶している感覚もあるが、壇上の二人から目が逸らせない。 幼きキルシュは差し出された彼の手を取り、やんわりと微笑んでいた。 ……自然に普通に笑えている。今ではできない事に、キルシュは唖然としてしまった。『おれね、キルシュが大好きなんだ。大人になっても最高の親友でいよう。それでな、いつか……いつかは……』 顔の見えない少年は言葉を詰まらせる。そんな様子に幼いキルシュは首を傾げて彼を見上げていた。『なぁに?』『──っ! いつか、おれの事を好きになってくれたら、お嫁さんになってほし
……と、言っても近すぎるだろう。 キルシュは彼からぷいと顔を逸らす。「な、何?」 いくら顔が格好良くて、人のように感情を持ち自立し思考するように思えても、人ではない。何を考えいるのか分からなかった。キルシュは、彼を一瞥した途端だった。すぐに頤を摘ままれて、無理矢理彼の方を向かされる。「……!」 頭から湯気でも上がってしまいそうだった。キルシュは真っ赤になって彼から目を逸らす。 堪らぬ羞恥は、具象の花を手のひらから次々に芽吹かせる。薄紅の蕾が膨らみぱっと小さな小花を次々に咲く様はまさに感情現れ。いたたまれない羞恥にキルシュは追い込まれる。「俺は一つ、おまえに頼み事をしなきゃいけない」 ややあって言った彼の声は少し震えていた。 おっかなびっくりとキルシュが彼を見ると、光る目のせいでうっすら分かる彼の顔が紅潮しているのが分かった。「頼み事?」 訝しげにキルシュは見る。彼は頷いた。「俺に少しヘルツを……おまえの〝心〟をくれないか?」「心?」 キルシュは眉をひそめて復唱した。 ──ヘルツとは、宗教学的に〝心そのもの〟を示す言葉だ。『心が欲しい』それがいったい、何を示すのだろうか……キルシュは困惑し何度も目をしばたたく。「〝心〟は力を発動させる為の原動力だ。さっきおまえを助けた時に、殆ど使い果たした。あと数時間しないと、俺の〝心〟は回復しない。このままだと俺たちは安全な場所に逃げ切れないと思う」 ──おまえを守らなきゃいけない、だから頼みたいんだ。と付け添えて。彼は、キルシュを上に向かせた。 確かこんなシーンは、夜に部屋で一人密やかに楽しむ娯楽、恋愛小説で見た事がある。 男性に頤を摘まみ上げられて、上を向かされて……そう。作中のヒロインたちと、全く同じ状態に置かれている。ああ、きっと、そうに違いない。 これから、されるであろう事
やがて視界いっぱいを覆い尽くした閃光が消え、露わとなった正体にキルシュは目を瞠った。 ──それは、齢二十に届くか届かないかという風貌の青年だった。 柔らかに逆毛の立つ短い髪。その髪色は暗闇の中でも淡い色をしている事が分かる。装いは暗色を基調としたジレにシャツ、下衣に革製のブーツを合わせていて、洗練された雰囲気のあるものを召している。 上背もあり、ぱっと見た雰囲気は、鋭い目付きが印象的。とても、精悍な顔立ちの青年だった。 しかし、射貫かれた瞳は人間のものではない。 その瞳は暗闇の中、煌々とした光を放っているのだ。それはまるで、真昼の陽光を絞り集めたかのよな眩い金色で……。そんな瞳の奥底に真鍮色のギアのようなものがゆっくりと回っているのが見える。 更によく見れば、彼の首や手首の関節部位には不自然な継ぎ目があって……。 ふと連想するのは、機械科学の産物── 「機械人形(オートマトン)……?」 キルシュは呟くと、彼は何も答えずに視線を反らした。「走るぞ」 ぶっきらぼうに彼は言う。そして、彼はキルシュの手首を掴む獣道を駆け出した。 その一拍後、禍々しい咆哮を上げて異形の生き物は二人を追い始める。「**あああああ! 許さない、許さない、憎い……憎い!**」 のろのろとまどろっこしい、呪詛のような言葉が後方から響き渡った。 しかし彼の足は速すぎた。とてもでは追いつけず、さっそく足がもつれて転びそうになった瞬間だった。「仕方ないな」 痛い程に手首を引っ張られて、腰を掴まれた。そうして抱え上げられるなり、彼の肩に担がれる。 「──!」 とっさの事に驚いてしまった。 落ちないようにと片腕でがっちりと腰に腕を回……思いきり、おしりを触られているが、もはやそれどころではない。 背後からこの世の生き物とは思えない恐ろしい奇声が聞こえてくる。 ふとキルシュが身体を少し起こして後ろを見ると、やはりあの恐ろしい生き物が涎を垂らして追ってきていた。「ね
新月の夜という事もあって、森の中はひたすらに暗かった。 しかし、カンテラなどの明かりをもっていたら、〝見えてはいけないもの〟が見えそうで、逆にこの真っ暗な方がかえって怖くない気がした。 森に入って一時間近く。キルシュは獣道を歩んで森の奥へと進んでいた。 時折、木の枝に引っかかったりもするが、問題なく歩けている。 こうも暗くとも暗順応が働き、目が慣れるものだった。それに針葉樹の隙間から見える星空を見る限り、星たちは西の方向へ動いている。 あと数時間で空が白み、夜明けを迎えるだろう。 それを理解すると、なぜだがホッとしてしまい、キルシュはその場にしゃがみ込んだ。「さすがに疲れたわ……」 家を出てから、ほぼ立ちっぱなしの歩きっぱなしでだった。 もう足が棒のようだ。膝も笑って力が入らなくなってきた。大都会で寮暮らしをするお嬢様にしては根性を出しただろう。ほんの少し自画自賛して、キルシュはその場に腰掛けた。 だが、そこで座ってしまった事が間違いだっただろう。 疲労から来る眠気は容赦無く襲いかかり、瞼が重たくなってきたのだ。 そもそも普段の生活では、日付が変わる前には確実に寝ているのだ。今の詳しい時間は分からないが、恐らく午前二時を過ぎたのではないだろうか。キルシュは瞼を擦って欠伸をひとつ。(せめて陽が昇るまでは起きていよう……) だが、もう一度立つ気力が湧かない。それに瞼は段々と持ち上がらなくなってしまった。国内屈指の心霊スポットだ。こんな場所で眠れるなんて自分の神経が意外にも図太いなんて自分でも心のどこかで感心してしまうが、体力的にもう限界だった。 (少しだけ、ほんの少しだけ……休もう) すぐに起きるんだと自分に言い聞かせて。キルシュは、背を木の幹に背を預け眠りに落ちた。 それからどれ程の時間が経過しただろうか。 心地良い眠りを彷徨っていたキルシュは、どこか聞き覚えのある子どもの声に突如として叩き起こされた。『おい、キルシュ起きろ!
無計画に歩む事、幾許か。 真っ暗闇に静まり帰った真夜中の街を横切り、林檎畑の続く農園地帯を横切り、領地の南端の方までやってきた。 そもそも伯爵家のある場所が領地の南寄り。実際には大した距離ではない。 ……無計画とはいえ、家出は成功させたい。 やはり兄の言った言葉は到底許せぬもので、キルシュ自身むきになっていた。だからこそ、せめてこれくらいは成し遂げたいなんて思えてしまった。 とはいえ、二度と帰らないという程の心構えではなかった。 いつか帰って来て、立派になって見返してやりたい。と、ふんわりとその程度に思うだけ。 それでも屋敷を出るのに成功したのだ。何だか、今なら何でもできる気がして仕方ない。 (あのお兄様に〝ぎゃふん〟と言わせてあげたい。そうできたら最高) この家出を本当の意味で成功させるには、絶対に見つからないように、探し出せぬように。これが必須だ。そこで考えたのは、国外逃亡だった。 今、キルシュの目の前には鬱蒼と茂る森が広がっていた。この森はシュメルツ・ヴァアルト……ツァール帝国と隣接するオルニエール王国の境となる森だった。 ……そう。レルヒェ地方でもヴィーゼ領は国境沿いの街だった。 だが、この深い森──シュメルツ・ヴァルトが理由してここには関所が無い。オルニエール王国との行き来するには、二つ以上離れた領地の川の関所を通らねばならない。 まさに抜け道と言えば抜け道だが……誰もこんな場所を通って他国に逃亡しようなんて考えもしないだろうと思えた。 だが、この選択は不思議と〝意図して〟というより自然と浮かんだものだった。 むしろ、勝手にこの方向に足が進み、直感的に悟っただけで……。(オリニエール語は一応話せるけど……ツァール語が普通に通じる地域が多いって聞いたわ。あちらで何かしら、仕事を見つけてどうにか生計を立てていけば暮らしていけるはず) きっと大丈夫だ。と、根拠も無い自信を心を弾ませて、キルシュは暗闇に広がる森を見る。 しかし、足は震えて一歩がなかなか踏み出せなかった。 この